ゲストスピーカーを仰せつかりました髙田と申します。今日はよろしくお願い致します。
私は歴史については全くの素人でございますが、たまたま私の父が戦争に行っていた時に、戦場で書いていた日記が手元に残っていました。
昨年(令和2年)の春にコロナ禍で家に籠もっていた時期に、暇にあかせてその日記を判読しまして、調子に乗って、ホームページも作ってネットで公開しました。
それが、我ながらなかなか良い出来栄えだと思いましたので、朝日新聞さんに売り込んでみましたところ、取り上げて頂けまして、昨年7月7日付け夕刊の大阪版に載せて頂きまして、それが加藤(正彦)先生のお目に留まって、今日ここに呼んでいただいた次第です。
今日はこの父の日記のサワリの部分を拾い読みしながら、日中戦争がはじまった頃の戦場の姿をご紹介したいと思います。
それで、主人公の、私の父でございますが、当時の名前を中尾敏郎といいまして、戦後に婿養子になって名字が髙田に変わりました。
平成8年に他界しましたが、大正5年生まれです。
大正生まれの人は、ちょうど青春時代が戦争と重なるので運が悪い世代と言われますが、父の場合は当時の徴兵年齢の20歳になったのが昭和11年(西暦でいえば1936年)でして、その年の春に徴兵検査を受けて甲種合格したのだと思います注1。
父はその1936年の春から小学校の代用教員として、教師生活を始めたばかりだったのですが、半年余りで退職を余儀なくされまして、12月1日付けで兵隊になりました。
当時、大阪の人は、大阪第4師団(今も大阪城の天守閣の横に司令部の建物が残っています)へ行く人が多かったのですが、私の父の場合は当時、日本領だった朝鮮に置かれていた「朝鮮第20師団」の所属となりまして、その第20師団の中の「野砲兵第26連隊」という部隊に入りました。
大砲を撃つ砲兵になったのですね。
そして、さっそく12月8日には軍の輸送船に乗って朝鮮へ旅立ちました。
日記には「豚小屋の様な軍用船」と書いています注2ので、多分、船の中は大勢の新兵でスシ詰め状態だったのでしょう。
その船で神戸港を出港しまして、朝鮮半島に上陸し、龍山(ヨンサン)(現在の韓国の北西の端っこの方、ソウル市内にある街です)にあった第26連隊の兵営に入営しました。
お手元の資料の冒頭の写真は、おそらく父が所属した第10中隊の新兵さんの集合写真だと思う注3のですが、最前列は連隊長などの偉い方々、2列目以降の71人が新兵たちでしょう。
そして前から3列目の右から3番目にスキッとした男前がいますね、それが私の父だと思います。
背景の建物はおそらく当時の野砲兵第26連隊の兵舎で、屋根に突き出しているのはオンドル(朝鮮式の床暖房設備)の煙突らしいです。
朝鮮の兵営の前で新兵の集合写真
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野砲兵第26連隊の兵営の門(写真絵葉書)
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このヨンサンには野砲兵第26連隊の兵営の他にも、第20師団の司令部や、歩兵連隊の兵営などが立ち並んでいたのですが、日本が第2次大戦に敗戦した後は、アメリカ軍が基地として再利用していましたので、当時の建物がほぼ戦前の姿のままで今も残っているそうです。
それで、アメリカ軍はそこを順次、韓国側に返還を進めていまして、韓国はそれらの歴史的建造物を保存して、記念公園にする計画なのだそうです注4。
残念ながら、写真の野砲兵第26連隊の兵舎は今は無くなっていて、当時のものとしては、大砲の砲弾の形をした石碑だけが残っていて、そこには「一誠貫之」注5と刻まれているそうです。
「一筋の誠で之を貫け」というような意味の、砲兵の心得なのでしょうか。
大阪護国神社の野砲兵第26連隊慰霊碑
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ちなみに、大阪の住之江区の大阪護国神社の境内に野砲兵第26連隊の慰霊碑がありまして、これは戦友会の人たちが建立したのですが、やはり大砲の砲弾の形をしています。
多分、ヨンサンの兵営の石碑と同じ形にしたのかなと推測をしているのですが、将来ヨンサンの記念公園が整備されましたら、是非見に行って確かめてみたいと思っています。
それで、父はそのヨンサンの兵営で1936年12月から砲兵としての訓練生活を始めたのですが、その半年あまり後、1937年7月7日に盧溝橋事件が起こりまして、これが日中戦争に拡大していく中で、父もそれに動員される事になります。
当時、日本は、義和団事件で獲得した権益として、天津や北京などに日本の軍隊を置いていました。
これが「支那駐屯軍」なのですが、7月7日の夜、この支那駐屯軍が北京郊外の盧溝橋付近で軍事演習をやっていたときに、これに対して何者かが発砲したことが引き金になって注6、付近にいた中国の軍隊と軍事衝突が起きました。
事件そのものはそれほど大きな衝突でありませんで、7月11日には双方の現地軍代表が停戦協定に合意したのですが、最早それでは収まらないほどに、中国の人たちの反日感情が高まってきていて、日中間の溝は大きく、深くなっておりました。
日本側では、「この際、断固として中国側をこらしめよ」(当時の言葉では「膺懲する」というのだそうですが)という強硬意見が強く、さらに、中国の中央軍が北京を目指して北上してくる動きもありましたので、日本政府は7月11日、満洲国内にいた関東軍の2つの旅団注7と、朝鮮にいた第20師団、さらに日本の内地からも3つの師団を中国に派兵する事を決めました。
ただし、日本の内地から海を渡って3つの師団を派兵することについては、大ごとになりますので一旦延期になりまして、陸続きで中国に移動できる関東軍と第20師団に対しては直ちに出動の命令がかかりました。
第20師団に対して7月11日付で出された2つの命令を資料に載せてありますが、上側は「7月13日から応急動員を開始せよ」という命令、下側は「なるべく速やかに北支那に行って、支那駐屯軍司令官の指揮下に入れ」という命令です。
※ 以下、日記や命令等の引用中の【 】の中は、注釈として引用者が補足した部分です。 應1 |
臨参命【天皇の命令注8】 第57號 命 令 1 第20師團ヲ北支那ニ派遣ス 2 第20師團長ハ、成ルベク速ニ北支那ニ到リ、支那駐屯軍司令官ノ 隷下ニ入ルベシ 満支國境通過ノ時ヲ以テ、支那駐屯軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス 3 細項ハ参謀總長ヲシテ指示セシム 昭和12年7月11日 [アジ歴C14060903000画像3枚目] |
この「動員」という言葉ですが、軍事用語で「動員」と言いますのは、「軍隊を平常時の体制から有事体制に切り替える」という意味なのだそうで、動員命令がかかりますと、平常時よりも装備や兵隊の数が大幅に増えることになります。
しかし、動員命令がかかった時点では平常時の人数しか居ませんので、動員命令が出た後、急遽、日本の内地で予備役になっている人などに召集令状、いわゆる赤紙を出して人集めをするのですね。
野砲兵第26連隊の場合ですと、平常時の体制は大隊が3個、大隊の下の中隊は7個なのですが、戦時体制になりますと4個大隊、12個中隊の編成になりまして、他に弾薬や軍服など、諸々の物資を輸送する輸送部隊も整備されます。
1つの中隊は大砲を4門持っていますので、野砲兵連隊の全体では、平常時の28門が、戦時体制では48門になって、戦闘力が7割ほどアップする計算になります。
それに伴って、兵隊の人数、あるいは大砲や荷物を運ぶ馬も、2倍以上に増えます注9。
7月13日の動員当初は、ほぼ平常時の体制のままで中国へ出発したのですが、その後で召集された追加要員は大阪 和泉市の信太山の野砲兵第4連隊の兵営に集合して部隊編成をした注10あと、中国に先発部隊を追いかけていきまして、9月9日に最前線まで追いついて、そこでやっと戦時体制が整ったわけです。
今申し上げましたのが野砲兵第26連隊の話ですが、その上の組織、朝鮮第20師団となりますと、野砲兵第26連隊のほかに、歩兵連隊が4個、それと騎兵連隊1個、工兵連隊1個、その他諸々が含まれて、総兵力が9,804人、馬が1,741頭、これが7月13日の出発時の陣容です注11。
これに、新たに召集された人たちが9月に合流しまして、戦時態勢としては2万人を超える規模注12になりました。
それで父の日記に戻りますが、盧溝橋事件が起こった7月7日の頃は、そういう運命が間近に迫っているとも知らずに、朝鮮の兵営で砲兵としての教育・訓練を受けています。
7月8日の日記には観測の教習を受けたと書いています。
大砲は数千メートル離れた目標を狙いますので、通常、直接に目標を狙うのではなくて、あらかじめ、資料の写真のように、見通しの良いところに観測所を設置します。
※ これ以降、モノクロ写真は全て1940年10月発行の野砲兵第26連隊 写真集「征旅幾春秋」より引用したものです 観測所 注13
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そこに中隊長と観測隊が陣取りまして、目標地点と、大砲を設置した地点、それから観測所の3つの地点間の距離や角度を測りまして、大砲を向ける方角や高低角を計算します。
観測所と大砲の間には通信用の電線が引かれてありまして、観測所から大砲を向ける方向角、上下角の指示や「撃て」の命令を出しまして、撃った後は着弾観測をやって弾道の軌道修正を指示する、そういう段取りになっています。
大砲についてもう少し説明いたしますと、現在の大阪城公園のところに、戦前は大阪砲兵工廠という大砲の工場があったことはご存じの方も多いと思いますが、日本陸軍の大砲は、ほとんどそこで作っていました。
資料に九一式十糎
榴弾砲の図面を載せていますが、私の父の中隊はこれを4門持っていました。
口径10.5センチ、最大射程距離が1万メートルほどで、これを馬6頭で引っ張っていました。
九一式十糎榴弾砲 [アジ歴C01005052200画像222枚目] |
この大砲を打つ時は1番砲手から9番砲手まで9人の分業体制なのですが、父は3番砲手でしたので、主に大砲の筒のお尻から砲弾を装填する役回りでございました注14。
3番砲手:(おそらく改造三八式野砲の場合)
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それで日記の話に戻りますが、盧溝橋事件の翌日、7月8日は先ほどの観測の教習を午前中受けまして、午後は、敵の戦車に肉薄攻撃する教習を受けたと書いています。
そして次の7月9日か10日頃になって、連隊の中に「動員されるらしい」という噂が流れはじめまして、7月12日の朝の点呼のときにそれが現実になりました。
日記のこの部分を読んでみます。
2・3日たった【1937年7月】12日の朝、
南山
【ソウル中心部にある低い山】は霧に隠れて麓のみ薄ボンヤリと見える。
5時の朝点呼だのに、中隊長殿はもう来て居られる。
静かな力ごもった声で、第廿
師全部に動員が下った旨を傳えられる。
早速と編制を割り当られる。
皆が々、張り切って居る折柄とて、誰が出征を望まぬ者は無からうが、「我が我が」と耳をそばたて、編制の傳達を聞いて居る。
幸にして自分は3番砲手として出征する事になった。
と、書いていまして、この翌日の7月13日から準備に取りかかって、「身の廻りのものを全部返納し、又総てのものを新品で授与された」と書いています。
第20師団は鉄道ですぐに移動できるように、ヨンサンの駅のすぐそばに兵営があったのですが、なにせ師団全体では先ほどお話しましたように9,804人の大所帯ですし、1,741頭の馬と大砲やらの武器も載せますので、列車の順番待ちが長かったようで、父の第十中隊は、7月15日に武器や食糧の積載を終えています。
列車への兵器・馬の積み込み
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15日の夕方には2時間程、面会の時間があったのですが、朝鮮のことですので、家族との面会はできませんでした。
父の戦争関係の遺品がいくつか残っていまして、今日持ってきたんですが、この日記(※当ホームページ冒頭の写真)のほかに千人針ですね、弾よけのお守りで、赤い糸で「武運」・「長久」の形に縫い目が1000個あります。
千人針(表・裏 表裏の間に綿が入っています)
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それと日の丸が2枚、親族が寄せ書きをしていて、地元の神社のご祈祷印が押されています。
何かの本で読んだのですが注15、当時の兵隊は日の丸の旗をたたんで鉄兜の下に入れて、頭のお守りにしたりしたそうで、緊急時には自分たちが日本軍であることを知らせるために広げて振ったと書いてありました。
日の丸
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それとこの赤いベストですが、「武運長久」と書いてあって朝鮮神宮のご祈祷印が押してあるほか、作った人の名前が書いてありまして、朝鮮の海州旭町公立高等女学校1年生の内山武子さんという方なのですが、この方は父の身内とか「彼女」とかでは無かったと思います。
冬着ですので、朝鮮在住の女学生たちが皆で作って、出征した第20師団の兵隊さんたちに慰問品として送ったのではないかと思います。
慰問品のベスト
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それで、いよいよ7月16日の午前6時、ヨンサン駅から列車に乗って出発するんですが、現地の日本人や朝鮮人が大勢でバンザイ・バンザイで見送ってくれたと書いています。
駅での見送り
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この時の日記を読んでみますと、
【1937年7月16日】全く演習に出て行く氣持だが、軍楽隊の「天に代りて不義を討つ」の調【軍歌「日本陸軍」】を奏された時は何だか感慨無量、涙の目に浮んで来るを止め得なかった。
だがだが、決して悲しいのではない。嬉しかったのだ。
自分の様なものにまで頼りにして、かくも沢山見送って下さる。
自分が戰ひに出ても、此の期待にいくら報ひる事が出来ようか?
打振る日の丸の旗を後へ流しつつ、汽車は我等を乗せて一路北に向い、朝鮮各駅では汽車が止る毎、或は鉄道の両側より、小學生、日本人は勿論、朝鮮人まで、旗を振るやら、さけぶやら、湯茶や郵便の接待まで此の上なしの歓迎振り、実に胸つまって何とも云はれない。
夜の12時半、朝鮮の最北端、新義州に着く。
兵は皆つかれ果てゝ、車中で戰の夢をむすびて眠むって居る。
時間は草木も眠むる12時と云う眞夜中だのに、未だ小学校の子供や多くの人々が、萬才萬才と叫び續けて居る。
日本の土地も、此れにてさらばだ。【つまり列車が日本領朝鮮と満洲国の境界線になっている鴨緑江
にさしかかった】
鴨緑江の鉄橋も5分間位で過ぎ去り、間もなく安東
【現在の丹東】につく。
夜は突襲を受けるか分からないと云ふ狀況の下に、燈火管制をさせられた。
汽車にも自分等以外に歩兵1ヶ中隊、工兵が1ヶ大隊程乗って居て、歩兵は列車の前後で常に警戒をして居る。
若し列車が敵に襲はれたる時は、歩兵が先ずそれを喰止め、その中、砲1門を下ろして砲兵が應戦をなし、それに續いて、工兵が踏板
をかけて他の砲を完全に下ろす手段だ。
と、使命感と半ば不安が入り混じったような心境を書いています。
かくして列車は7月18日の朝に天津駅につきまして、いったん馬を下ろして、支那駐屯軍の兵営で数日間、待機をします。
このころ、日本と中国の間では盧溝橋事件を収めるための協議が続いていたのですが、だんだん抜き差しならない状況になって来ていました。
それで7月26日の朝ですが、父の中隊は起床と同時に出動命令がかかり、兵舎を出て天津駅まで行って天津駅で待機させられました。
結局そのあと待機が解けて、何もせずに兵舎に帰ったんですが、実は前日の25日深夜に、郎坊注16事件と言いまして、北京の南東の郎坊というところで、日・中両軍が衝突したのですね。
夜が明けてから日本軍の飛行機による爆撃などで、中国軍が逃げまして衝突は収まったのですが、もし衝突が拡大した場合にすぐ砲兵隊が駆け付けられるように、天津駅で待機をさせられたのだと思います。
それで父たちはいったん兵舎に帰って寛いでいたのですが、その日(7月26日)の夜11時半に再び出動命令がかかります。
これが、いよいよ中国軍との本格的な戦闘の出動命令でございました。
当時、天津には日本とか欧米列強の治外法権地域(租界)がありまして、その中の日本租界にはたくさんの日本人が住んでいたのですが、父の部隊はトラックで兵営を出発して、この日本租界を通って天津駅に向かいました。注17
日記のこの部分を読みますと、
【1937年7月26日】我々もトラックに溢れるばかりつめ込められ、一つの大きな日の丸を後になびかせながら駅に向った。
今まで全然、何の氣も起らなかった日本租界が、今は日本人で埋り、藝者やダンサーやカフェーの女給、会社の重役等々、道端にて、家の中より、或は2階より、声の續く限り萬才萬才と叫んでくれ、全く感慨無量で目に涙さへ浮んだ。
と又同時に、相手も我々の姿を見、如何程、嬉しく思い期待をなし、頼りにして居たであろう。
遠く異国に離れたる同胞が心よ、その期待には必ず報いて來ますとばかり、我々も手をさしのべて萬才をとなへ返した。
ということで、現地の日本人の大声援を後に、天津駅で大砲や馬を列車に積み込みまして、7月27日の昼に天津駅を出発しました。
この7月27日に出された日本軍の戦闘開始命令、臨参命第64号を資料に載せています。
臨参命 第64號 命 令 一 支那駐屯軍司令官ハ現任務ノ外、平津地方【北平(=北京)~天津にかけての地域】ノ支那軍ヲ膺懲【こらしめる】シテ、同地方主要各地ノ安定ニ任ズベシ 二 細項ニ關シテハ参謀總長ヲシテ指示セシム 昭和12年7月27日 [アジ歴C14060903000 画像17枚目] |
当時の日本軍の統帥権は天皇が持っていましたが、天皇が軍に対して発した命令を臨参命と言いまして、この臨参命第64号は、支那駐屯軍司令官に対して「北京から天津にかけての地域に居る中国軍をこらしめよ」という命令です。
「こらしめる」とは、具体的にどうすることか言いますと、先ほどお話しましたように、7月11日に現地軍同士で停戦協定を交わしていたのですが、その中に中国軍の第29軍を北京周辺から撤退させるという項目が入っているのに、中国側が一向に撤退せず、日本軍との間で先ほどの郎坊事件のようなトラブルばかり起きている状況なので、実力で中国軍を北京周辺から排除するという趣旨です。
北京の包囲攻撃
[アジ歴A06031020500国立公文書館内閣文庫 内閣情報局関係出版物 週報第43号2頁(JPEG 6枚目)](※一部追記) |
前日の7月26日に日本軍の司令官から中国軍に対して、北京周辺から撤退せよと最後通牒を出していたのですが、それでも中国側に撤退の動きが無いので、この27日の攻撃開始命令が出されて、28日の朝、北京周辺で一斉攻撃を開始しました。
これは双方、数万人注18の軍隊どうしが対決する大規模な戦いです。
日中戦争は7月7日の盧溝橋事件が始まりとされていますが、盧溝橋事件は偶発的な衝突で、その段階ではお互いに戦争に踏み込むかどうかは未だ流動的でした。
しかし、この7月27日の攻撃命令で日本は戦争への決定的な一歩を踏み出しました。
北京は、当時は北平とも呼ばれていました注19が、ご存じのとおり紀元前の昔から中国の主要な都市の一つでして、特に明から清の時代の500年間は、中国の首都として、皇帝の宮殿(紫禁城)がおかれた歴史遺産の街ですが、当時は街全体が大きな城壁に囲まれていまして、その周辺の郊外に中国軍が駐屯していました。
特に南側、北京市街から約10キロ南の南苑というところに中国軍の兵営がありまして、そこには、中国の学者の本によりますと7,000人の将兵と1,500人の抗日軍事訓練団という学生の部隊が居て注20、一番手強かったのですが、その南苑の兵営への攻撃を、父がいた第20師団の9800人が受け持ったんですね。
先ほど、父の第20師団が7月27日の昼に天津駅を出発した所までお話しました。
天津は北京から南東の方角にありますが、その天津で列車に乗って、夕方に黄村駅(上記の地図で一番下)で降りまして、そこから南苑の戦場を目指して行軍したのですが、南苑の手前に團河村という村がありまして、そこで中国軍の部隊と最初の戦闘をやっています。
鉄道を最初に降りた歩兵部隊が、まず中国軍とぶつかったんですが、歩兵だけで戦ったので苦戦していました。
後の列車で砲兵隊が追いつきまして、砲撃を始めてから、ようやく中国軍は南苑の兵営の方へ後退しました。
その夜、第20師団が南苑の南側に露営をしているところから日記を読んでみます。
南苑の中国軍兵営への攻撃
当時の絵葉書(2枚組、従軍画家 小室孝雄画伯筆)「南苑に於ける細川部隊の奮戦」
後方の兵は、敵銃弾に当たらないようにできるだけ低い姿勢をとっています。 |
【1937年7月27日】此の夜は、少し後の方に陣取り、待機の姿勢で警戒をしつつ、一夜を明かす。
夜中はドンドン、バリバリと頻りに銃声が耳に入る。
自分が警戒兵となり、立哨して居る時、近くで鳴った一彈の銃声と同じに、その流れ彈が小生の鉄かぶとの横を、チューンと音を立てて飛んで居った。
初めて小銃彈の飛翔音を聞いたが、相当氣持ちが悪かった。
ふと前方を見れば、部落が焔々と焼けて居るではないかと、あゝ。
【1937年7月】28日朝4時半頃に陣地変換【陣地の移動】がある。
雨降りで悪くなった道を、【馬が引く砲車に】乗車も出来ず、砲の後から敵陣地目掛けて【徒歩で】出発だ。
1.4~5町【≒150m】程くれば歩兵が續々と續いて休んで居る。
フト横を見れば、これは如何に、チャンコロ【当時の「中国人」の蔑称】が青龍刀を掴んだまゝドブの中に倒れて居る。
1間【≒2m】程行けば、又あちらに1人、眞青になって血まみれになった背を上向けながら、満洲馬もあちらこちらと横にモンドリ打って倒れて居る。
人の死体を見た事のなかった小生は、今初めて戰爭のミヂめさを感じた。
それから少し行けば、友軍の歩兵の重負傷者を集めて介抱して居る衛生兵。
朝の陣地変換の時だけでも、チャンコロの死体を見る事十数人、高粱畑の中まで見れば、相当の数に上るだろうが、此所らが敵との激戰地だったと云ふ所だ。
歩兵は白兵戰までやり、相当美談があったらしい。
ドンドン進むこと2里【≒8km】餘り、砲の上に現れた友軍の重爆【爆撃機】1、軽爆2機は、100米程手前に行き、広い広場に爆弾を投下、上に土煙は焔焔と立ち込め、実に勇ましく偉大なものであった。
そして敵を洗ひ去った後、その所に放列【一斉射撃用に大砲を横に並べる】を敷き始めて、十榴【=十糎榴弾砲】及び野砲の射撃を開始した。射つ事、射つ事、全く忙しく、相手も機関銃と小銃とで頑強に抵抗する。
何しろ数萬の敵だ。此の時、辺りは耳の横をかすめる小銃の音が常だ。チューン、チューンと横を流れていく。
十榴だけが打った彈数は、此の時数十発。
野砲は又、それ以上、第五中隊は【砲兵なのに歩兵と同じ】第一線に乗り込んで居る。
漸やくにして【自分等】第二線の射撃緩和になり、やっと一息をつぐ。
昨日、列車の中で水を飲んでしまひ、それより一滴の水も口にせず、降りた雨のしづくを以って口をしめ【ら】す位、今日はもう、たまりかね、野にたまる池の水のにごったものを、ものともせず腹の底までガブガブのんだ。矢張り戰争だ。
間もなく陣地変換、前方に進んだが、友軍の主力が【敵と入り乱れて】あぶなくて、十榴は射つ事出来ず、道端に置いたまま、横の溝に伏して待って居た。
第一線の者は、盛んにドンドン、バリバリとやって居る。敵彈雨の如しとは全く此の事。その中にどうやら敵の兵營も落ちたらしい。
自分等はそのすきに乗じて近くの畑に西瓜を取りに行き、咽のか【わ】きを此れでとめて居た。
敵もどうやら逃げ失せたらしいので、第一線まで進み出る。
此れは又、何とした事、友軍の歩兵、砲兵の死傷、負傷が、續々とつれられて後へ下ってくるではないか。
聞けば砲兵【第】五中隊が全滅したそうである。
それもその筈、歩兵より砲兵の方が前に出て、零距離でドンドン戰ったそうである。【近距離の敵に対し、発射後すぐ炸裂する砲弾を撃つ「零距離射撃」をした】
2時間程、其の辺の高粱畑で休憩があったが、歩兵や五中隊生き残りの兵などに話しをきくと、そうとう烈しかったらしい。
満洲事変の事など、此の戰を思へば5分の1にも足りないらしい。面白い。
雨でグツグツになった道を、砲車の後にまとひながらついて、夕方一部落につき、嚴重なる警戒のもとに、一夜の露えいをなした。
青白い月の光に、鉄帽のかたく光って居るのも又ものすごい。
月の下の土の上で、ごろごろ兵士の横はって居る有様は、全く今日のものすごき戰場を思はさしむる。
というふうに最初の激戦の様子を書いています。
結局7月28日の昼の1時ごろに第20師団は南苑を占領しまして、残った敵は北の北京市街の方へ向いて逃げ出したところを、支那駐屯歩兵旅団(先ほどの地図では「河邊部隊」と「萱島部隊」と書かれています)に撃滅されまして、結局、この南苑の戦いでの中国軍の死者数は、史料によって幅がありますが2500~5000人注21とされています。
この日、南苑のほかにも北京周辺で激戦が繰り広げられたのですが、すべて北京の城壁の外でやっていまして、城壁の中の北京市街は戦場にならずに済んでいます。
当時の北京市内は人口が150万人、日本人も5千人住んで居た注22そうなのですが、そのうち半分ほどは事前に日本などへ脱出済みで、北京に残っていた日本人2,356人注23は、北京城内の公使館区域(先ほどの地図で、小さい字で「各国公使館」と書いてある、日本と欧米列強の共同租界)に避難していたそうです。
ということで、日中戦争が本格的に始まった7月28日の南苑の戦いについてご紹介しましたが、日本側は、ちょっとこらしめたら中国はすぐに頭を下げるだろうと思っていたところ、中国が徹底抗戦を続けまして、その後、日本軍は中国大陸にどんどん軍隊を送り込んで占領地を広げていくことになります。
資料に臨参命第88号を載せていますが、先ほどの臨参命第64号では「中国軍をこらしめよ」だったのが、88号では「敵の戦争意志を挫折させて戦争を終結させる」という風に変わっています。
臨参命 第88號 命 令 一 北支那方面軍司令官ハ、平津地方 及其附近主要地ヲ占領シ、是等地方ノ安定確保ニ任ズベシ 敵ノ戰争意志ヲ挫折セシメ、戦局終結ノ動機ヲ獲得スル目的ヲ以テ、速ニ中部河北省ノ敵ヲ撃滅スベシ 二 細項ニ關シテハ、参謀總長ヲシテ指示セシム 昭和12年8月31日 [アジ歴C14060903100 画像37枚目] |
その後、中国大陸の東側、海に近い地域では、8月から11月にかけて上海戦、その後12月には南京戦といった大きな戦いが続きますが、私の父の第20師団の場合は、北京を後にして河北省を南へ進んだ後、資料の地図の石家荘から西へ曲がりまして、内陸部の山西省へ入っていきました。
河北省から山西省へ進攻 [アジ歴C11111494800に一部加筆] |
そのときの臨参命が第112号ですが、やはり「敵の戦意を喪失させる目的で北部山西省に作戦する」とあります。
臨参命 第112號 命 令 一 敵ノ戦意ヲ喪失セシムル目的ヲ以テ、北部山西省ニ作戦ス 二 北支那方面軍司令官ハ、一部兵力ヲ以テ北部山西省ニ作戦セシメ、太原ヲ攻略スベシ 三・四 【関東軍への命令なので省略】 五 細項ニ關シテハ参謀總長ヲシテ指示セシム 昭和12年10月1日 [アジ歴C14060903200 画像48~49枚目] |
この命令のもとに、日本軍は山西省の北部の主要な街や村を占領しまして、さらにその後、山西省の南部、黄河のほとりまで占領せよとの命令がでます。
資料の大陸命34号では、「黄河左岸にわたる地域を戡定する(戦って平定するという意味です)」と書いてあります。
中国の黄河といえば5千キロ以上もある雄大な川ですが、山西省の辺りでは南向きに流れて行った河が、東向きに変わる曲がり角になっていまして、山西省内はその左岸の地域になります。
大陸命 第34號 一 大本営ハ情勢ノ推移ニ伴ヒ、膠済沿線及済南ヨリ上流黄河左岸ニ亙ル地域ヲ戡定【※戦って平定すること】スルノ企図ヲ有ス 二 北支那方面軍司令官ハ前項ノ線ニ向ヒ、逐次作戦ヲ推進スルト共ニ、占領地域ノ確保安定ニ任ズベシ 三 細項ニ關シテハ参謀總長ヲシテ指示セシム 昭和12年12月18日 奉勅傳宣 参謀總長 載仁親王 [アジ歴C14060903800の画像17枚目] |
先ほどまで、天皇の命令は「臨参命」でしたが、11月20日に大本営が設置されてからは大本営陸軍部命令、略して「大陸命」に変わっています。
日本軍はこの大陸命に従って注24、1938年の2月11日の紀元節(今は建国記念日ですが)から3月10日の陸軍記念日までの期間に、山西省の南半分を戡定してしまう計画を立てまして、大攻勢をかけました。
その結果、第20師団は陸軍記念日には山西省南部の主要な街や村を占領したのですが、中国軍はまだまだ山西省内の各地に残っていまして、絶えず逆襲の機会を狙っていました。
特に中国軍は各地で鉄道の線路や道路を破壊して、日本軍の弾薬や食料の輸送ルートを寸断する、いわば兵糧攻め作戦を執拗に続けまして、第20師団はこの後、山西省内の占領地の守備と、残っている敵の掃討作戦に明け暮れる日々を続ける事になるのですが、この辺りは後半でご紹介します。
注1 大日本帝国憲法の第20条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ兵役ノ義務ヲ有ス」の定めに基づき、「兵役法」(国立国会図書館デジタルコレクションの官報(1927年4月1日)画像4枚目以降)および「兵役法施行令」・「兵役法施行規則」・「陸軍召集規則」(国立国会図書館 官報(1927年11月30日)画像14枚目以降)などで原則下表のような兵役制度が定められていた(※ 服役期間は陸軍の場合)。
兵役 | 常備兵役 | 現役 | 現役に徴集された者(2年間) | いずれも 年齢上限 40歳 (後には 45歳) |
予備役 | 現役を終った者(5年4ヵ月間) | |||
後備兵役 | 常備兵役を終った者(10年間) | |||
第1補充兵役 | 現役に適する者であって、その年の現役兵の所要人員を超えた者のうち、所要の人員(12年4ヵ月間) | |||
第2補充兵役 | 現役に適する者であって、現役または第1補充兵役に徴集されなかった者(12年4ヵ月間) | |||
第1国民兵役 | 後備兵役を終った者、及び軍隊に於て教育を受けた補充兵であって補充兵役を終った者 | |||
第2国民兵役 | 上記全ての兵役に該当しない年齢17歳以上の者 |
なお、日中戦争拡大に伴い、上記の服役期間が臨時延長された。すなわち、
陸軍は昭和12年9月28日に臨時に在営期間及び服役期間を延長することに定めた。その大略は左の如くである。 1.動員部隊、又は事變地に在る部隊に属する現役、豫備役、後備役の將校、准士官、見習士官及び下士官現役兵(短期現役兵を除く)、豫備兵、 後備兵並に第一補充兵にして、服役期間を滿了する者と、特別志願將校で服務期間を満了する者は、別命あるまでその期間が延長される。 …(以下略) 2.動員部隊又は事變地にある部隊に属する現役兵にして、在営期間の満了する者は、別命あるまでその在営が延期される。 (国立国会図書館のデジタルコレクション所収(※ログインが必要)の社会教育協会編「教育パンフレット 第288輯」) |
中尾敏郎の場合、17歳~19歳の間が第2国民兵役(入営はせず)、19歳のときに徴兵検査を受けて合格し、20歳で現役兵として徴集され朝鮮第20師団に入営、日中戦争で現役期間が延長されて3年1ヵ月余りで復員して予備役になった。
予備役であっても兵員不足時には召集されて、再度戦地に行かねばならないが、小学校教員をしていたために召集を免れて終戦を迎えた。
もし戦前の制度がその後も続いていたとすれば、予備役の後も後備兵役、その後は第1国民兵役が続いて、45歳までは「戰時又ハ事變ニ際シ必要ニ應ジ」召集される可能性があったほか、軍事教育・訓練のために短期間召集されることもあった。(兵役法54条以下、陸軍召集規則第2條以下)
現役兵としての適否を判定する徴兵検査は、前年12月2日~当年12月1日の間に満20歳の誕生日を迎える人を対象として、当年4月16日~7月31日の間の指定日に受検するものとされ、中尾敏郎も1936年のこの間に受けた筈である。
(国立公文書館アジア歴史資料センターホームページC15120428200「徴兵事務の大意」画像7枚目。これ以降、引用時には、「アジ歴」とレファレンスコードのみに略す)
徴兵検査の結果に応じて次のような取り扱いとなる。(兵役法33~35條)
徴兵検査結果 | 役 種 | 歩兵・砲兵などの兵種兵種の決定・入営・召集 |
「現役に適する者」 | 現役兵 | 各徴募区ごとに定められた配賦人員が、体格検査等の上位者から徴集され(検査成績が同等の者は抽籤によって徴集順序を定める)、兵種も決められて、入営して教育訓練を受ける。 |
第1補充兵 | 各徴募区ごとに定められた配賦人員が、体格検査等の上位者から現役兵の次に徴集され、兵種も決められるが、平時は短期間の教育のための入営のみで、現役兵に欠員が出た場合や戦時に、召集により入営する。 | |
第2補充兵 | 現役兵・第1補充兵に漏れた者は第2補充兵として徴集される(兵種はこの時点では決められない)。平時は入営せず、戦時に、召集により入営する。 | |
「現役には不適だが国民兵役に適する者」 | 第2国民兵 | 徴集はされないが、戦時には召集されることがある。 |
「兵役自体に不適と判定された者」 | - | 兵役を免除された。 |
中尾敏郎の場合、1936年に徴兵検査を受けたが、当時は20歳男性(徴兵適齢者)のうち2割程度が現役兵として徴集されて入営した。
項目 ╲ 徴兵検査年 | 1930年 | 1933年 | 1935年 | 1936年 | 1937年 | 1938年 | 1939年 | 1943年 | ||
S5年 | S8年 | S10年 | S11年 | S12年 | S13年 | S14年 | S18年 | 臨時 | ||
壮丁数 | 徴兵適齢者 | 631,882 | 660,686 | 663,386 | 662,159 | 651,622 | 636,288 | 640,300 | 762,200 | 103,038 |
前年終決処分未済者 | 116,092 | 154,540 | 164,787 | 166,505 | 171,465 | 175,892 | 189,600 | 212,500 | - | |
計 | 747,974 | 815,226 | 828,173 | 828,664 | 823,087 | 812,180 | 829,900 | 974,700 | 103,038 | |
配賦者数 | 陸軍現役兵 | 100,771 | 117,724 | 134,338 | 137,855 | 179,371 | 329,000 | 350,993 | 367,822 | 69,911 |
陸軍第一補充兵 | 163,675 | 183,558 | 175,279 | 197,648 | 228,489 | 110,140 | 104,773 | 120,000 | 15,533 | |
海軍現役兵 | 7,525 | 11,525 | 13,450 | 13,289 | 15,740 | 17,210 | 22,955 | 3,000 | - | |
海軍第一補充兵 | 2,623 | 629 | - | - | - | - | - | 25,000 | - | |
計 | 274,594 | 313,436 | 323,067 | 348,792 | 423,600 | 456,350 | 478,721 | 540,822 | 85,444 | |
陸軍特別志願兵 | 朝鮮軍 | - | - | - | - | - | 195 | 501 | 5,472 | - |
台湾軍 | - | - | - | - | - | - | - | 500 | - | |
計 | - | - | - | - | - | - | - | 5,972 | - | |
資料出所(アジ歴) | C01001212100 | C01001272700 | C01004150700 | C01001440400 | C01004412900 | C01004577800 | C01004750100 | C15120177400 | C15120178200 |
1937年に戦争が始まって以降は、現役徴集率が高まるとともに、補充兵もすぐに召集されて戦場に行くので、現役兵と変わらない状況になっていく。
朝鮮にあった第20師団の兵員は「主トシテ第4、第5、第10、第11、第12、及第16師管、一部ハ他の師管」から徴集することになっていた(兵役法施行規則第90條)。
中尾敏郎の本籍地の大阪府北河内郡は、当時は第4師管区の中の堺連隊区であった[神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫の1925.4.8付東京朝日新聞]。
第4師管区は大阪第4師団への兵員供給を主とする師管区だったが、独自の師管区を持たない近衛師団や第20師団などへの徴兵・召集も分担していた。
入営先が大阪第4師団ではなく朝鮮第20師団になるのは、本人にとってはショックだったと思われるが、本人が朝鮮の部隊を希望する場合は別として、一般には徴兵検査の成績順に何人かに1人ずつ、機械的に第20師団などへ割り振っていったようである(兵役法施行規則第93條第4項(ト))。
ちなみに、川岸文三郎中将が第20師団の師団長として山西省を転戦していた頃の話として、「私の部隊には、大阪界隈の兵隊も多数にいるが、彼らはなかなか強いぞ。由来、京阪の兵隊といえば、日露戦争の頃、弱いものの標本みたいに風評せられ、歌にまではやし立てられたが、どうして、今の大阪の兵隊は、最も勇敢である」と慰問団に語ったとのこと(伊藤金次郎著「陸海軍人国記」 … 昭和14年発行、昭和55年4月に再刊本の346頁)。
なお、「歩兵」や「砲兵」といった「兵種」については、兵役法33条2項で「各募集區ノ配賦人員ニ應ジ其ノ身材、藝能及職業ニ依リ之ヲ定ム」とされている。
中尾敏郎が野砲兵にされたのは、旧制四條畷中学校のラグビー部でフォワードをやっていたので(「畷ラグビー50年」149~150頁)、その馬力を買われたのだろう。
注2 「PDF資料集」の「Cの日記」p14に出てくる言葉。
次の注3に記したように、集合写真の71人が第10中隊だけの新兵だとすれば、平時体制で野砲兵第26連隊には7個中隊あったので、500人近い新兵が軍用船に乗って朝鮮に渡ったということになる。
これより10年前の史料になるが、1927年1月の新兵輸送について、つぎのような記録が残っている。
(なお、この表では野砲兵第26連隊の入営兵が410人となっているが、その後1936年12月に第10中隊が増設されて[アジ歴C01007510500]、要員が70人程度増加した筈である)
1927年1月の第20師団新兵輸送 [アジ歴C01003759400] |
注3 当時の野砲連隊の1個中隊は上等兵20名、1・2等兵122名が平時定数だった(アジ歴C01007515600「陸軍平時編制」画像36枚目)。
平常時の現役兵の在営期間2年サイクルで考えると、写真の71人は1ヶ中隊ぶんの新兵の年間必要数に見合う。
なお、写真の背景を第26連隊の営舎と推測しているが、第20師団の練兵場で写真を撮ったのであれば、歩兵連隊などの営舎である可能性もある。
注4 「ハンギョレ新聞WEB」の記事「[創刊企画] 龍山(ヨンサン)基地遺跡の再発見」による。
なお、歩兵第79連隊の兵営(下の地図で歩兵營が2つあるうちの左側)跡地に、現在は戦争記念館が建てられている。
[「韓国語ジャーナル2021」97~98頁所収の「秋月先生の街歩きソウル」の記事による]
加藤圭木氏著「紙に描いた日の丸」によると、龍山の広大な土地は1905年から低い補償金で強制的に収用したとのこと。
当時は未だ韓国併合前であったが、日露戦争に際して中立を宣言していた韓国に対して、日本が締結を強制した日韓議定書が収用の根拠になっていた。
日韓議定書(1904年2月) 第4条 第三国の侵害に依り、若くは内乱の為め大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は 大日本帝国政府は速に臨機必要の措置を取るへし。 而して大韓帝国政府は右大日本帝国政府の行動を容易ならしむる為め十分便宜を与ふる事。 大日本帝国政府は前項の目的を達する為め、軍略上必要の地点を臨機収用することを得る事。 |
なお、「大林組八十年史」のホームページには1906年に龍山および平壌の両兵営工事の受注を獲得した旨記載がある。
ただし、この時期はまだ第19・20師団はできておらず、韓国駐箚軍(1904年に編成)の時代であり、1910年の韓国併合で朝鮮駐箚軍と改称されたのち、
1915年に2個師団増設が実現して平壌に第19師団、龍山に第20師団の兵営群が立ち並ぶことになった。
龍山 野砲兵第26連隊兵営付近の地図 … 京城府(現在のソウル特別市)市街の南にあった [ウィキペディアの「京城府」の項に掲載の1930年頃の地図(一部)を加工] より詳細な京城~龍山の地図がソウル歴史博物館のWEBページにある(京城精密地図seo013209-000-001) |
注5 スピーチした後で、この石碑が「勅諭下賜五十周年 誓詞ノ碑」であるらしいことが判明した(昭和10年ごろの絵葉書による)。
龍山 野砲兵第26連隊兵営にあった「勅諭下賜五十周年 誓詞ノ碑」の絵葉書 (※ 古物商で入手したものなので、「除隊記念」のハンコがあるのは中尾敏郎のことではありません)
|
明治天皇は、明治15年1月4日に軍人勅諭を下賜し、軍人が守るべき5箇条(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)を挙げた上で、その精神を総括して「一つの誠心こそ大切なれ」と諭した(国立国会図書館デジタルコレクション「軍人勅諭讀本」12コマ目)。
大正天皇の大正元年7月31日の勅諭では、この明治天皇の軍人勅諭について、「一誠ヲ以テ之ヲ貫ク可キヲ示シ給ヘリ」と言及しているので、(アジ歴C14020139700「勅諭(寫)」)おそらくこの一節が、「一誠貫之」の碑文の出典だと思われる。
軍人勅諭の50周年は昭和7年1月4日なので、その頃に碑が建てられたのであろう。
(※ 注4のハンギョレ新聞Webの記事では、「砲弾形に整形された赤い花こう岩の柱に‘一誠貫之’と刻まれている。 一発の正照準で貫くという意味で、砲兵精神を象徴している」と書かれているが、そういう意味では無いと思われる。)
ちなみに、類似の碑文として、独立山砲兵第3連隊の「至誠一貫」の碑が自衛隊久留米駐屯地内に残されているとのこと(陸上自衛隊富士学校特科会「日本砲兵史」p247)。
注6 盧溝橋事件の約1年前の1936年6月に、日本は中国の反発を押し切って支那駐屯軍を1,771人から5,774人に増強し、その際、新たに盧溝橋のそばの豊臺にも部隊を配置したことで、中国軍部隊と隣接するようになったことが背景にあった。(防衛庁戦史室 戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p72。以下、戦史叢書の参照頁番号は、ネット表示の頁番号ではなく、印刷されている方の頁番号による。増強後の兵力内訳はアジ歴C01002711500)
注7 ただし、関東軍は「すでに独断兵を動かして長城線(※満州国と中国の国境だった万里の長城)を越え、続々冀東地区(※中国河北省)に乗り込んで来た」(寺平忠輔「盧溝橋事件」p242、戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p151・p168)。
注8 「臨参命」は陸海軍の最高指揮官(大元帥)である天皇の命令であるが、昭和天皇自身の発意によるものでは無い。
臨参命を最初に起案するのは、参謀本部の作戦課スタッフで、関係先と協議を経て成案を得た後、天皇に上奏して裁可を得、内閣総理大臣に報告する。
統帥権独立制により、必ずしも事前に内閣の議を経る必要がなかったが、盧溝橋事件後の派兵については事前に閣議に諮られている。
「應(応)1」の動員命令は「勅を奉じ……を命令す」という形式で陸軍大臣から伝達されているが、これも「奉勅命令」という、天皇の命令。
注9 野砲兵第26連隊の中隊の実個数は、7月の出発時は7個中隊(「PDF資料集」の「Aの日記」p14)、9月に戦時体制への移行後は12個中隊(「PDF資料集」の「野砲兵第26連隊の関連資料」p12)であり、いずれも定数どおりである。
ちなみに、戦時体制での大砲の定数は、改造三八式野砲が@4門×9個中隊=36門、九一式十糎榴弾砲が@4門×3個中隊=12門、計48門となっている(アジ歴C01007658600「昭和12年度陸軍動員計画」画像359・397枚目)。
野砲兵連隊の人馬の定数は、将兵が平常時1,211人→戦時2,894人、馬が平常時615頭→戦時2,269頭であった(平時定数はC01007515600「陸軍平時編制」画像36枚目、戦時定数はC01007658600「昭和12年度陸軍動員計画」画像92枚目)。
注10 7月11日付の「応1号」は応急動員命令であり、とりあえず、6月に内地復員済みだった人などを朝鮮に呼び戻した上で出動した(アジ歴C01005788000「動員下令の件」)。
7月27日付の「動2号」で内地の3師団(第5・6・10師団)が動員された時に、第20師団の本動員も併せて下令されており(戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p191)、そこから本格的な召集作業を始めたようである。
後に出てくる外山秀松氏の場合、7月27日に連隊区司令部から速達で野砲兵第26連隊段列長の内示を受け、その後すぐに召集令状がきて、7月30日には信太山の野砲兵第4連隊の兵営に入り、第26連隊段列隊の編成・出発準備作業を始め、8月19日に信太山兵営を出発、21日に大阪港を出港、26日に龍山の第26連隊兵営に到着、9月2日から鉄道で先発部隊の追及を始めた(回想録「支那事変における北支派遣川岸兵団細川砲兵部隊外山隊」p2)。
なお、信太山の本来の主である野砲兵第4連隊は、1937年4月から満洲の関東軍に編入されており、信太山の兵営には第3大隊だけしか残っていなかった。(信太山砲四会編「野砲兵第四連隊史」p196・496)
注11 「PDF資料集」の「Aの日記」p14に引用した、第20師団の報告書(アジ歴 C11111040400)による。
注12 昭和12年度陸軍動員計画の「野戦部隊人馬総数一覧表」による師団の定数は将校704人、準士官・下士官2,251人、兵22,297人、合計25,252人、馬8,305頭だった。(アジ歴C01007648900「動員計画諸部隊整備一覧表の件」画像15枚目))
注13 写真は7月28日の南苑の戦いでの観測所であるが、敵から丸見えのように思われる。
通常、観測所は木の枝でカモフラージュしたり、壕を掘ったりして、敵の大砲に狙い撃ちされないようにするが、南苑の中国軍は歩兵部隊だけで砲兵部隊が居なかったのであろう。
中尾敏郎の7月28日の日記(後出)でも、敵の小銃や機関銃弾が飛び来る記述はあるが、大砲の砲弾が飛んできたとは書いていない。
第20師団の歩兵第79連隊 加藤嵩一氏の手記(ニューギニア方面遺族会編集「つわもの之碑 戦後五十周年追悼特集号」193頁所収)には、南苑の戦闘の際、中国軍の迫撃砲弾が飛んできたが不発で命拾いしたとの記述があるが、迫撃砲は主に歩兵部隊が使う簡易な砲で射程距離が短く、日本軍の野砲陣地までは届かなかったと思われる。
当時の中国軍は、華中~華南にいた蒋介石直系の中央軍は最新式の火砲を装備していたが、北京周辺にいた第29軍など地方軍の装備は貧弱だった(戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p104)。
中尾敏郎の日記でも、中国大陸を南下するにつれて中国軍砲兵との砲兵戦がみられるようになり、例えば、「Cの日記」1938年2月23日の靈石付近の戦闘では「今日は敵も砲を大分持って居り、小銃彈やら砲彈が数限りなく飛んでくる。今日の戰闘は南苑以来の激戰で、砲兵戰だ。中隊の観測所には、幾つともなく敵砲彈が炸裂する」と書いている。
注14 写真の改造三八式野砲の砲弾の重さは約6kgであるが、91式十糎榴弾砲に使用する砲弾は16kgもあった(佐山次郎著「大砲入門」273頁)。
大砲自体も大きく、同書249頁によれば、「砲車の重量は乗車5人で操作ができ、かつ野戦での人力運動を効果的に行えるよう、日本人の体力ではおおむね1000キロ以内を適当とした…(中略)…91式十榴は1500キロで、支那事変の体験によれば日本人の体格に明らかに過重であった」とのことである。
注15 スピーチした後で調べ直したところ、斉藤邦夫「陸軍歩兵よもやま話」昭和60年版p60に記載されていた。
注16 廊坊と書かれることもある。
注17 中尾敏郎らの部隊は、おそらく下のような街路を軍用トラックで出発して行ったのであろう。
当時の天津租界の写真 [愛知大学国際中国学研究センターの「中国戦前絵葉書データベース」所収の絵葉書写真] |
なお陸軍省恤兵部編「支那事變 戰跡の栞 上巻」(昭和13年9月1日版)によれば、昭和11年1月末現在、天津在住の日本人は8,157人(内地人6,676人、朝鮮人1,416人、台湾人65人)だったとのこと
注18 BS-TBSの2021/2/20放送「関口宏のもう一度!近現代史」では中国軍8万人、日本軍3万人(内訳:支那駐屯軍約5千、関東軍約1万、朝鮮軍(※第20師団)約1万)とされていた。
注19 「北平」は蒋介石政府が南下して中華民国政府の首都が南京に移ったことに伴う改称なので、中華民国政府側の呼称である(1928年~49年まで)。
日本が占領後に組織された北平地方維持会は、1937年10月12日に「北平」を「北京」に戻した。(戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p448)
その後、12月14日に日本軍の占領地を統治する「中華民国臨時政府」が北京に樹立され、日本の現地軍は、この改称を日本も正式承認するよう要請した。
外務省は1938年2月11日に「北京」の呼称採用を決定したとのこと(戸部良一著「ピース・フィーラー」p189)。
1937年に「北平」から「北京」へと改称した地方維持会の看板の写真 [「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」所収の絵葉書] |
注20 劉大年・白介夫編「中国抗日戦争史」p44。
ただし、王秀鑫・郭徳宏著「抗日戦争史」p148では「当時、南苑守備の第29軍部隊約2万人」となっていて、南苑にいた中国兵の数について前掲書と食い違いがある。
また、抗日学生については寺平忠輔著「盧溝橋事件」p351には1千名とあり、エドガー・スノー「アジアの戦争」p20では、戦闘に参加して負傷した青年に聞いた話として「青年は満州の大学生であったが、ほんの数週間前大学や中学の他の百人の仲間と共に志願したのだ、と語った。再三にわたる嘆願に応えて宋(※中国の第29軍司令 宋哲元)は抗日青年のために特別訓練連隊を作ったのであった。そこには数人の共産党員を交えて、全部で3百人以上の学生出身の士官候補生がいたが、その2百人以上もがここで戦死してしまった」と記している。
士官候補生の学生が3百数十人と、一般の学生兵士数百人が居たということであろうか?
南苑爆撃時の航空写真
「新愛知新聞社調査部編「皇軍は進む : 北支事変史」29頁に掲載の写真。 |
注21 アジ歴A06031020500の「週報第43号」p12では2,500人、戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p226では5,000人となっている。
注22 人口150万人は寺平忠輔「盧溝橋事件」p242の数字、日本人の人数には当時日本領だった朝鮮や台湾の人も含む。
小林 元裕氏の論文「華北分離工作期北京の日本居留民」によると、1936年末時点では日本人4,478人のうち、内地の人は1,824人、朝鮮人2,593人、台湾人61人、男女別では男性2,691人、女性1,787人となっている。
注23 戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p225(画像 123枚目)。
残留日本人を公使館区域(「東交民巷(とうこうみんこう)」)に避難させたことは注21の「週報第43号」に記載がある。
公使館区域のようすについて、陸軍省恤兵部編「支那事變 戰跡の栞 上巻」(昭和13年9月1日版)p50には「周圍は銃眼のついた圍壁に繞らされてゐて、外廓は防御地蔕として幅200米の空地が設けられ、宛然一種の要塞地蔕の觀を呈してゐる」とある。
かつて1900年に義和団の勢力が北京に攻め込んだときには、日本や列強の駐在員らがここで2ヵ月間の籠城戦を戦い抜いた。
(北京)東交民巷の写真 [京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 所収の写真を引用] |
注24 この命令は山東作戦に際して出された(戦史叢書「支那事変陸軍作戦(1)」p489、山西省への適用についてはp442)